雑記_思考と季節と自我
ガラスのコップがある。
触れると、ひんやりと冷たい。
溶けだした氷が水に浮いている。透明度の高いそれは限りなく水に近い色をしているのに、目は水との境目を認識している。
針先のように細かい水滴がガラスの表面を覆っているが、触れたことで二粒の大きな水滴に変化して、下へと垂れていく。下?下。コップの下のテーブルを認識する。気づかなかっただけで、そこには白いテーブルがあったのだ。白。そう、この部屋は白い。部屋。いつこの部屋に来たのか、もう覚えていない。
振り返ると、窓がある。こんなのあったっけ、と、枠に指先をのせて外を見ると、目まで青く染まってしまいそうな空があり、光に透けた黄緑色の葉が茂っている。
な、つ。
口が動く。
そうか、夏なのか、と、気づく。
口の中から吐き出された空気が窓を僅かに白くする。冷たい。吐き出された空気が冷たい。ふと手元を見ると、さっきのコップが握られている。水を飲んでいた。だから、呼吸も冷たいのだ。
目をあげると、一面が白く染まっている。雪。
遠く遠く、本当に遠くに、白く暖かそうな服を着たこども達が走っている。声は全く聞こえず、顔も良く見えないが、笑っていのはわかる。知っている。あの子たちは確かに笑っている。
ほら、笑っている。どうしてわかるの?だって、白い景色の中、ひらいた口の赤だけが見えるもの。声がきこえないよ。
声がなくとも笑っていることはわかるよ。
呟きが、その人の耳に吸い込まれる様を見つめる。その人。誰かがじっとこちらを見ている。
じゃあ、ねえ、あなた、どうしていま、そんな顔しているの。
その問いに答えられず、するりと胸の中を何かが通る。
わたし?ぼく?おれ?あなた?きみ?
だれ?
いま、考えているのは、だれ?
あなた?わたし?
にっこりとその人が笑う。
いや、泣いている?
それとも、あれ、ぼく?
そう、あなた、ずっとわたしだったのじゃないかしら。
ドアノブに手をかける。
少しだけ開くと、廊下の影がとろりと、白い床にこぼれる。
長い廊下の先に、一枚の絵がかかっている。あれは確か、ルノワール。猫を抱く裸の少年の、柔らかいような鋭い視線がこちらをじっと見つめている。今世界がおわったら、最後に対面するのは彼ということ。
ひぐらしが鳴いている。
雑記_words
定義された言葉の意味と、それを実際使うときの人の心情は重ならないことも多々あるので、音としての言葉と、意味としての言葉は変わってくるのではないかと感じる。
ここ十数年、『ありがとう』という言葉と同じ手軽さで『死にたい』と言う人がとても多い。これは主に若いひとたちにいえることだと思う。しかしここで彼らの言う『死にたい』というのは、『命を落としたい』という意味ではない。疲れた、だったり、辛い、だったり、そういった何とも言えない、少し逃げてしまいたいような日常の気だるい物事に遭遇したときの心情を表しているのだろう。
『死』が遠く感じるように錯覚できる現代に、『死』という言葉の重さは少し変わってきている。
しかし、その代わりに言葉に重みを感じることもあまり無いような気がする。
言葉に重みのある人というのは、無意識のうちにその『言葉』の上に重なった重く長い歴史を、感じているのかなと思う。
例えば、生き物として生きる我々から切っても切れない単語に『愛』と『死』がある。
『愛』という言葉には、今まで生きてきた数えきれないほどの人間や動物や植物の『愛』の歴史が重なっていることをしり、『死』という言葉には悠久の歴史のなかの様々な形の『死』を感じ取っている。意識的でも、無意識的でも、それをわかっている人の言葉にこそ重みが加わるのだと私は思う。
雑記_影
願わくば
あの音のなかで
あなたともう一度出会いたい。
あぶくのような思考がはじけて消える。
色あせる音と色とかおりの中
言葉だけは確かに残る。
出会い言葉を交わしてきた
たくさんの人の影が浮かんでは消える。
多くを知り
すべてを懐かしみながら
私はたしかに終わりへと近づいてゆく。
それが少しさびしく
悲しいぐらい、いとしいのだ。